伊野尾先輩と華麗なる朝チュン
色んな部署が集まる飲み会。
いつもなら楽しいはずなのに、何故かこの日はあまり乗り気じゃなくて。
端の方で、隠れるように飲んでいると、少し離れた席に伊野尾先輩がふと見えた。楽しそうに話しながら飲んでる姿をぼーっと眺めてると、バチッと視線が合って慌てて逸らす。汗をかいたグラスを意味もなく睨む。
まだこちらを向いているであろう目線が気になるけど、顔は上げられなかった。
ちょっとお手洗い行ってくるね、と同期に伝えて席を離れ、お店の外へ。
少し冷たい空気に、嗜む程度だったお酒の酔いはすぐに冷める。
このまま居ても変わらない。申し訳ないけど抜けよう、とぼんやり考えながら一人壁にもたれかかっていると突然後ろから声。
「気分悪い?」
振り向けば、そこには伊野尾先輩がいた。
『や、ちょっと飲みすぎたんで休憩です』
咄嗟に嘘をついて笑って誤魔化す。本当は酔うほども飲んでいないのに。
そっか、と分かったんだか分かってないんだかな返事の後、さも当たり前みたいに隣にやってくる伊野尾先輩。ふわっと伊野尾先輩の香水が控えめに香って、心拍数が上がる。
『先輩こそどうしたんですか』
「俺ぇ?んー、俺もちょっと飲みすぎたから」
一緒だね、そう言って笑う伊野尾先輩。冷めた筈の酔いが戻ってくるような感覚、ふわふわとした意識の中、伊野尾先輩が下から覗き込むように視線を合わせて呟く。
「帰っちゃおうか、二人で」
帰る?誰と?あたしと?伊野尾先輩が?
ぐるぐる考えを巡らせて無言になったあたしを見て、伊野尾先輩は少し不安そうな顔で「嫌?」だなんて聞いてくるから、ぶんぶん!と首を振る。
よかった、じゃ、荷物取ってくるから待ってて。と店へ消えていった伊野尾先輩。
慌てて同期に【ごめん、先に帰ります】とライン。暫くして【いのーさんに荷物預けたよ、お持ち帰りよかったね( 笑 )】とド直球な返事が返ってきて店前で一人じたばた悶える。
そう、これは断じてお持ち帰りではないのだ、優しい先輩が家まで送ってくれる、それだけだと言い聞かせて歩き出したのは数十分前のお話。
『先輩』
「ん?」
『酔ってないですよね』
「・・・バレてた?」
『だって全然飲んでなかったから』
「飲んでないの分かるくらい、俺のこと見てたの?」
意地悪に笑う伊野尾先輩、図星で顔も見れない。
「んー・・・ていうか、俺あんまりあぁいう場得意じゃないんだよね」
静かに飲んでる方が好きだわ、と零す。
『そうなんですね』
「まぁそれもあるし」
『?』
前を向いていた伊野尾先輩がちら、と視線をこちらへ向け、歩みを止める。確かに酔ってない筈のその瞳は、少しだけ潤んでいる。
「一緒に帰りたかったから」
真意の読めない言葉に馬鹿なあたしは振り回される。
期待してもいいのか、自惚れてもいいのか、そんなこと聞けなかった。
ずるいですねそういうとこ、と可愛げのない返しをすれば、ケラケラと笑ってまた歩き出す。
『・・・あの、』
もう、酔っていることにしてしまおうと思った。
駆け引きなんて出来ないなら、勢いで雪崩込んでしまえばいい、と。
さっき自分に言い聞かせた言葉は、もう何処かへ消えてしまった。
『よかったら、飲み直しませんか』
斜め前を歩いていた伊野尾先輩の歩みが止まる。
振り向いたその顔は、少しだけ驚いていて、さっきの仕返しだと、場違いな事を考えてしまった。
「・・・どこで?」
『・・・あたしの、家で、です』
家、家かぁ・・・と上を見上げて頬を掻く伊野尾先輩が、同じく立ち止まっていたあたしの所まで戻ってきた。
四歩、三歩、二歩、一歩。靴の先が触れ合う程の距離。さっきよりも濃く香る香水に、頭が回らなくなる。
ねぇ、と聞こえる声はいつもと変わらない。ただ、瞳だけは、鋭さを携えていた。
「俺、子供じゃないからさ、楽しく飲んでハイさようなら、なんてできないし」
すっ、と掌が髪を撫でる。指先が梳かす様に滑って気持ちいい。
「その先だって、期待しちゃうよ?」
いいの?と可愛く首を傾げ、返事を促す伊野尾先輩のスーツの裾を掴む。
もう、逃げられないのだ。
『伊野尾先輩なら、いいです』
決意とは裏腹に尻つぼみになってしまった言葉を聞いた伊野尾先輩は、くすりと笑って手をかけていたあたしの後頭部を引き寄せる。
突然のことにつんのめり、思わず伊野尾先輩の胸に飛び込む形となる。
「あんまりかわいいことばっか言わないで、・・・止まんなくなるから」
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夜のなんやかんやは割愛
朝チュン🐤まで早送りです
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朝、アラームが鳴り響く。
あまり飲まなかったせいでそれほど目覚めは悪くない。でも気分が乗らなくて、飲み会を先に抜けて、それから・・・それから?
重たい瞼を開く。
「おはよ、」
伊野尾先輩が、隣にいる。
一気に蘇る昨日の情景に、顔から火が出そうだった。
『・・・おはようございます、・・・いつから起きてたんですか・・・』
「えー?30分くらい?」
『もしかしてずっと見てたんですか』
「うん、ずーっと見てた、かわいいから」
朝から刺激が強すぎる。ストレートな甘い言葉も、シーツに染み込む体温も、直に感じる肌の感触も、何もかも。
『も、やめてください・・・』
「はずかしいの?、かわいい」
『うるさい・・・』
思わず顔を掌で隠せば、なんで、顔、見せてよ、なんて優しく解こうとする伊野尾先輩。火が出るところの騒ぎじゃない、燃えてしまう。
地味な攻防戦の途中、ふと気付く。アラームが鳴ったという事は会社があるということで。こんな悠長に甘い雰囲気を楽しんでいる(楽しんでいるのは伊野尾先輩だけだ)場合ではない。
ベットを抜け出そうとしたあたしの腕を掴む、そんな人は一人しかいない。
「ね、もう今日は会社休んじゃいなよ」
悪魔の囁きである。
華奢な割に腕を掴む力が意外と強いことは、昨日身を持って体感した。
『二人で休んだら怪しまれますよ』
「だいじょぶ、俺有給取ってるもん」
『でも、』
あっという間に、顔を隠していた手を取られて、指が絡まる。真っ白で綺麗な手に捕らえられた。
「俺と、いたくないの?」
グッと距離を詰められて、まだ少しだけ眠たそうな伊野尾先輩の目に映る自分の姿。
仕掛けたのは確かにあたしだ。でもいつの間にか術中にはまっていたのもあたしだった。
うぅ・・・、と唸ったあたしを完璧に堕とす爆弾は、唇が触れ合うギリギリの距離で発射される。
「電話できたら、ちゅーしてあげる」
少しの沈黙の後、スマートフォンに手を伸ばしたあたしを、いい子、と褒める伊野尾先輩は、悪い子。